カテゴリー別アーカイブ: 市川市

六所神社の謎の石碑たち|市川市・須和田

六所神社は、千葉県市川市須和田2丁目にある、なんの変哲もない小さな神社です。
社殿はあるけれどいつも無人。
参拝している人も見かけない。祭礼もやっているのかどうかわからない。
とにかく、人の気配がないこの神社。(この日は移動交番が来ていましたが)

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よく見てみると、結構面白い。

まず、入り口に「景行天皇勅願所」の銘が入った石碑が立っています。
石碑の台座には「氏子中」と刻まれています。
「氏子中」とは同じ氏神を信仰する仲間のことで、祭礼などは氏子の中から選ばれた人が取りしきるそうです。
今では人の気配のないこの神社でも、氏子の人達の集まりがあったことがわかります。

鳥居をくぐると左手に祠があり、その横に庚申塔などの石碑が全部で14本も立ち並んでいます。

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左から順に(字の読める石碑だけ)読んでいくと。
國底立大神・猿田彦大神・浅間神社・阿夫利神社・安永八年亥正月 須和田村講中・天津祖大神・白山姫神社・須和田氏子中 ?(読めない)大明神・月読之神社

祠や庚申信仰(猿田彦大神の石碑)、富士山信仰(浅間神社の石碑)は神道というよりも、民間から出てきた信仰です。

たとえば庚申信仰。これは厳密には教義といえるものはなく、60日ごとに信者が集まって夜通し飲み食いしたり、お経を読んだりするというのが中心の民間信仰です。

左から数えて五つ目に「須和田村講中」と刻まれた石碑がありますが、「講」とは同じ信仰を持つ人々の集まりのこと。「講中」は講を作って神社に詣でたり、祭りに参加したりする集団のこと(「コトバンク」より)です。

さらに右へ四つ目に「須和田氏子中」と刻まれた石碑もあり、やはり氏子の集まりがあったことがわかります。

してみるとこの神社は、昔(「須和田村講中」の碑は江戸時代のもの)須和田の人々の信仰の中心だったのかとも思われるのですが、実は一つ疑問があります。

六所神社はもともと、今の国府台スポーツセンターのあたりにあったのです。今の場所に移されたのは明治19年です。(神社入口の説明版による)

では、この石碑たちはいったい何なのか。神社が移ってくる前は、ここは何だったのか。
石碑も一緒に移ってきたのか。じゃあなぜ須和田村講中なのか。(もとあった場所の地名は国府台です。)
誰か知っていたら教えて欲しいです。

市川のブックオフ・スーパーバザー|古本・古着・中古スキー、スノボ・中古ギターなど

6月2日、千葉県市川市鬼高3丁目のショップス2階にブックオフが開店したのでさっそく見に行きました。
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こちらのブックオフは古本以外にも色々な物が揃っていました。

【例えばこんなもの】
乳母車(9,000円台から)
赤ちゃんと一緒にジョギングできるバギータイプの乳母車は27,000円台

【楽器もありました】
クラシックギターが4,000円くらいから、上は50,000円台まで
エレキギターとアンプ類
ヤマハのクラリネット・プロモデルが49,800円
ヤマハのフルート(キズ、へこみあり)が22,800円
電子ドラムが19,800円

【スポーツ用品も】
スキー板とスノーボード
サーフボードとウエットスーツ
ゴルフクラブ

【趣味のもの】
釣り竿
フィギュア(ワンピースが多かったが、3万円もするプレデターのフィギュアもあった)
ミニカー
鉄道模型
ミニコンポ(1万円以下のもの多数)

【日用品】
古着(子供服多し。年齢別、身長別にキチンと分類して展示。試着室もある。)
靴やカバン、食器類

【その他】
応接セット
宝飾品やブランドバッグ
他にもいろいろ。

【肝心の本は】
文庫本・児童書・ムック類・マンガ本(文庫版マンガも)が多い
専門書などお堅い本は少ない
新書本ブームなのに新書は一冊もなかった

【本の並べ方】
文庫は、作家別のコーナー、出版社別のコーナー、値段別のコーナーと3種類の並べ方が混じっている。
値段別のコーナーでもその中で作家別に分かれているのでとても探しやすい。
文庫以外の本でもジャンル別コーナーと値段別コーナーがある。
値段別コーナーがさらにジャンル別になっているのは文庫本と同じ。
私は作家別のコーナーで見つけた本が少しばかり高かったので、値段別のコーナーで探し直して108円で購入しました。

【感想】
とても大きな店舗で店員さんが50人くらいいる感じでしたが、どの方もテキパキしていて感じが良かったです。
古本屋としては、正直、もう少し本が多ければ、と思いました。

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やわたのはちまんさま(葛飾八幡宮)|千葉県市川市

市川市の葛飾八幡宮は、地元では「八幡の八幡様(やわたのはちまんさま)」の名で親しまれています。

本殿
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八幡様はお稲荷様と並んで、日本で最も親しまれている神社ですが、そもそも八幡様とは何なのでしょうか。調べてみました。

【宇佐神宮が総本宮】
宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮が全国的に有名ですが、その中でも宇佐神宮が八幡様発祥の地だそうです。ここから全国各地に分霊されて、現在では2万5千社を超えるそうです。

【ご祭神は応神天皇】
ご祭神は諸説ありますが、応神天皇とするのが一般的だそうです。

【どんな信仰なのか】
八幡様は奈良時代末期に、菩薩信仰と結びついて「八幡大菩薩」の名で広く信仰されていました。
さらに、平安時代末期には阿弥陀如来とも結びついて「衆生済度の神」「極楽往生の神」として民衆の間に広まりました。
その一方、応神天皇の母、神功皇后は、応神天皇を出産した後すぐに新羅との戦いに勝利したという言い伝えがあり、奈良時代から八幡様を武の神とする信仰もありました。
やがて、八幡様が清和天皇の氏神として、京都の石清水八幡宮に勧請されると、清和源氏の子孫(源頼義、頼光、義家など)に敬われるようになりました。
鎌倉幕府をひらいた源頼朝は石清水八幡宮の分霊を鎌倉の鶴岡八幡宮に勧請したので、以来、武士の間で武の神として急速に広まりました。
現在は武の神の性格を引き継いで、勝利祈願、受験合格、出世開運などのご利益があるとされています。

【葛飾八幡宮のご祭神とご由緒】
葛飾八幡宮のご祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命です。
創建は平安時代で、宇多天皇の勅願により、下総国の総鎮守として京都の石清水八幡宮から勧請したのが始まりだそうです。

【葛飾八幡宮のご利益】
厄除、安産祈願、方位除け、車祓い、身体健全、病気平癒、家内安全、合格祈願、旅行安全などを予約なしで祈祷してもらえるそうです。

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市川市内の庚申塚(庚申塔)に刻まれた三猿(見ざる言わざる聞かざる)

来年の干支は申。

弊事務所では大きな「申」の字をあしらった年賀状を作りました。

ところで「干支」って何なのかというと。

古代の中国では十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥)の組み合わせで年や日や方角を表していて、これが日本に伝わったものだそうです。

因みに、本来の干支とは、十干十二支を順次に配して出来た60種類の組み合わせのことです。

(【例】 甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰というように進んでいく)

もとの組み合わせにかえるのが61年目でこれが還暦の意味だそうです。
来年、平成28年は「丙申」です!

干支は、平安時代の陰陽道でも使われました。
五行という自然の分類(木・火・土・金・水)や十干、十二支の組み合わせで吉凶を占うのです。
庚申の日が特にいけない日だったようで、夜通し眠らずに呪文を唱えていたそうです。
日の場合は61日毎に廻って来るから大変ですね。

この催しは江戸時代に庚申講へと姿を変えました。
この日に眠ると三虫という虫が体内から出て帝釈天にその人の悪事を告げ、告げられた人は寿命が縮まるというので、人々が集まって夜通し眠らないで宴会をする風習です。
庚申信仰ともいい、江戸時代から各地に庚申塚(庚申塔とも言う)も建てられました。

庚申塚には「申」に因んで三猿=「見ざる聞かざる言わざる」を刻んでいるものがあり、関東地方に多いそうです。

写真は国道14号沿い、市川1丁目と新田1丁目の境にある庚申塔です。光の加減が悪くてわかりにくいのですが、三猿が刻まれています。

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全景はこれ。
「青面金剛」と読めます。庚申信仰のご本尊とされいます。

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ところで、お隣の鎌ヶ谷市、粟野地区では、夜通しではないものの、現在でも庚申講が行われているとか。(鎌ヶ谷市のホームページより)

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千葉県市川市の曽谷城跡に行ってみました

平成6年発行の本「東葛飾の歴史地理」によれば、市川市内に曽谷城址という中世の古城跡があるらしいのです。

本文中には〈東葛飾地域の主な古城跡〉の地町村別一覧表が載っています。
しかし、それらは大正12年発行の「東葛飾郡誌」と「昭和45年千葉県城郭調査報告」を参考にしているというので少し心細いのです。

ネットで調べてみたら、案内板くらいはあるらしいので行ってみました。

【場所】
曽谷3丁目22番地に案内板が立っていました。
県道264号(高塚新田市川線)沿いのNTTの建物の脇の道を登って少し進んだ場所です。

【地形】
小さな台地です。比高は15メートルだそうです。

【現状】
他の人のホームページにも書かれている通り遺構は残っていません。
台地の上は、ほぼ住宅地です。
「余湖くんのホームページ」では道の脇に城址碑と案内板が立っており、城址碑の脇を右に入っていくと、「唯一、城塁と土塁を残している、腰曲輪状の部分に出ることができる。ただし、土塁は民家の庭の一部になっている。」と紹介されていましたが、今は家が建っています。
現地の案内板には
「現在では台地が崩され、わずかに石井氏宅の裏庭に、土塁と空堀に一部が残されているだけで、曽谷城の全容を知ることはできません。」とあります。
石井氏宅を探してみたのですが、見つかりませんでした。
もっとも、この案内板の記事は昭和56年のものですので仕方ないかもしれません。

【感想】
それでもやはりこんな道を見ると、気のせいか城跡っぽさを感じてしまいます。もとからのものなのか、宅地開発で出来た地形なのかは分かりませんが、住宅地にしては複雑な地形がみられます。
3丁目の案内板が立っているあたりです。

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台地から西の方角を見たところです。

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実際の階段と坂道は写真で見るよりもずっとずっと急です。その向こうは東京都まで見わたすことができます。これなら敵が攻めて来てもすぐに見つけることができそうですし、守るのも楽そうです。

城跡のある台地の遠景。

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写真だとたいしたことなさそうですが、ここから結構長い坂道を上らないとたどり着けません。

この辺り一帯は昔は湿地帯でした。この城が建っていた当時も湿地帯だったとしたら、攻める方はさぞ大変だったでしょうね。

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