カテゴリー別アーカイブ: 市川市

市川城跡は里見公園ではなく真間山だという説もあります

市川市内で有名な中世城郭跡としては、国府台城跡があります。

時代小説では国府台城を市川城と呼んでいる場合もあり、2つの城は同じものとして扱われています。

しかし、中世東国史の専門家である千野原靖方氏は著書「東葛の中世城郭」の中で、市川城と国府台城を別のものと考え、市川城が「弘法寺の道場・宗教施設があった砂州上に存在したかあるいは(中略)弘法寺敷地を含む真間の台地上にあったと思われる。いずれにしても、同寺施設を利用した城であったことが推定される」と述べています。

【弘法寺のロケーション】

市川市の国府台から東南へ延びる舌状台地南部の辺縁地域に位置しています。
南北約150メートル、東西約500メートル。比高は15メートルから17メートルです。

【土塁と切通し】

仁王門に向かって右手(東の方向)に盛り土があり、鐘撞堂が建っています。
盛り土は東に向かって約40メートルほどのびており土塁状になっています。

土塁の上、鐘撞堂を背に東方を見たところ

本堂の右手奥にも盛り土があります。前掲書によればこの盛り土は東西に走っていることになっており、私自身の記憶でもその通りなのですが、今回見に行った時は、かなりの部分が削られてしまっていました。

県道1号線から弘法寺へ向かう道は深い切通しの道になっています。
前掲書では「この道は、台地主体部から断ち切った大堀切のような形態」と表現されています。

千野原氏によれば「市川城は、真間山弘法寺敷地内の土塁・盛り土などで囲まれた施設を中心として、北側を土塁及び空堀・堀切で台地主体部から断ち切って築かれた寺院を要害化した宗教色の濃い城であったと推定される」そうです。

弘法寺は日蓮宗の寺院です。日蓮宗の寺院には要害としての機能・施設を備えた寺が多くみられるそうです。

ところで、先の鐘撞堂が建っている土塁ですが、地元の考古学者のうちには古墳ではないかと考える人たちもいるそうです。

現に敷地内には今でも円墳と前方後円墳が存在していますが、土塁を作るときにこのような元からあった古墳を利用した可能性も考えられるとのことです。

真間山 弘法寺 住所 千葉県市川市真間4-9-1
JR市川駅より   徒歩20分    
京成市川真間より 徒歩15分
京成国府台駅より 徒歩10分

参考 : 千野原靖方 「東葛の中世城郭」 崙書房出版 2004年

二十世紀梨発祥の地は松戸ではなく千葉県市川市八幡かもしれないというお話|千葉県は梨の産地として有名です

二十世紀梨は、松戸の覚之助という人によって栽培が始まったといわれ、千葉県松戸市二十世紀が丘梨元町には、発祥の地の記念碑まで建っています。

ところが、その二十世紀梨の苗は、市川市八幡で発見されたという興味深い記事を見つけたのでその抜粋を載せました。

昭和34年に市川毎日新聞社から発行された「市川市市制25周年記念 市川の思い出」という本の中に、農業を営む北川善太郎さんという方の話として、載っていた記事です。

八幡の梨のはなし

「八幡の梨は今も有名だが、昔は千葉県で梨の出るところは此処だけだったのですよ。
八幡の梨を初めてつくったのは、今から180年ばかり前、八幡の住人の川上善六という人だが、八幡は梨づくりには最も適した土地だったのですよ。砂地でね。私たちはこの砂地に梨の木を植えましたのが ―中略― 八幡に松の木が多いのも、梨畑の防風林のつもりで植えたのが初めでね、昔は南風が強く吹いたものですが、又そのため梨の木が他所に比べておいしい原因ともなっています。」(P49)

1896年~1909年の八幡の地図。果樹園の記号がたくさんあります。

二十世紀も八幡が発祥地

「一番うまい梨だといわれている二十世紀という梨は、松戸の覚之助という人が、60年程前に栽培して売り出したとされているけど、あの二十世紀は、もとは八幡の稲荷神社の境内に自然に生えた梨なのですよ。松戸の覚之助のお父さんがね、何といったか名前は忘れたが、その人がある年、八幡様の農具市にやってきた時、八幡の親戚の家に遊びに立ち寄った。当時、今の市役所の近くに稲荷神社があってね、その境内に色のかわった梨がなっていた。これを見たその人がね、「これは面白い梨だ」とそのなしの“ボ”をもって帰って、自分の家の梨の木についでみた。そうすると何とウマイ梨が出来てね。息子の覚之助さんの代になってから「二十世紀」という名前を付けて売り出したところ、これが大当たりー略―」(P50)

以上ですがなかなか興味深いです。

現在、二十世紀梨はこの辺ではあまり見かけませんが、九十九里海岸の辺りでは栽培されています。
西日本で栽培が盛んらしく、生産額が一番多いのは鳥取県です。

千葉県内でよく見かけるのは、幸水,豊水などの皮の赤い品種です。
千葉県は栽培面積・収穫量・産出額ともに全国第1位になっています。 

地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)から使用させていただきました。

市川市の暗渠・平川用水路|千葉県市川市

【「暗渠サイン」とは】
「暗渠マニアック!」という本によると、ある道路が暗渠かどうか見分ける目印として、「暗渠サイン」というものが紹介されています。その中から3つほど紹介すると。

・車止めがある(暗渠の蓋は重量物に弱いので)
・近くに銭湯など大量の水を扱う施設がある
・行政境界である(水路を境にして区分けされることがあるので)

さて、上の条件に当てはまる道が市川市国分3・4丁目と国府台1丁目・真間5丁目の境にあります。
じゅんさい池公園から南南東へ延びる3本の道のうち、真ん中の道で、県道264号線まで約1500m続きます。

県道264号に交わる場所。向こうに伸びている道が元の平川用水路。この辺りは車が通れる。

車が通れない区間。下に下水道が通っている様子。

【昔この道は用水路でした】
この道は、暗渠です。
私が初めてこの道を見た四十数年前、ここは道ではなく、広~い田園地帯を横切る一本の用水路でした。名前は平川用水路といいます。
このあたりは二つの丘陵に囲まれたいわゆる「谷地」という地形で、その真ん中をじゅんさい池から国分川に向かって平川用水路が流れていました。

【いつから暗渠になったのか】
用水路の国分川に近い場所は、早くから宅地化して用水路も暗渠になってしまったのですが、じゅんさい池に近い方は80年代末頃まで暗渠化を免れていました。用水路の周りには畑が広がって、春にはヒバリが囀っているのどかな場所だったのですが。(懐かしい)
でも、ある時気が付いたら普通の道になっていました。いつの間に…。最近になってすごく気になりだし、図書館で昔の地形図等を調べてみました。

自分の記憶では1982年までは用水路があったので、1985年発行の市川市都市計画図を見てみたら、既に用水路はない。

念のため1981年の国土地理院地形図を見ると、用水路の場所は細い黒線になっていて、これは幅1.5~2.5m未満の道路を表しているのですが、まだ暗渠化していない用水路の脇の小道を表しているのではないかと思います。

同じ場所が1990年発行の地形図では2本の実線で表されていて、これは幅3.0~5.5m未満の道路を表すので、もう暗渠化して立派な道路になったということですね。

図書館の地図コーナーからはこれ以上の情報はわかりませんでした。

畑だった場所も、今ではすっかり住宅地に変わりました。用水路も暗渠というよりは立派な道路になっているので、暗渠マニアには物足りないかもしれません。

じゅんさい池を背にして元の平川用水路を見る。

上の写真の撮影地点の近くに江戸時代の庚申塔があった。

【平川用水路はいつできた?】
ところで、明治時代の地図「関東平野迅速測図」(1880-1886)を眺めていたら、平川用水路が載っていないことに気が付きました。(他の水路等は記載されている)今度はいつ頃この用水路が作られたのかが気になっています。

参考図書: 吉村生, 高山英男「暗渠マニアック! 」2015柏書房

国分城跡を訪ねて|千葉県市川市国分の土の城

最近「東葛の中世城郭」という本を買いました。
その中で「国分城跡」として紹介されてる場所が、近所のよーく知っている場所でびっくり!
あらためて本を携えて訪ねてみました。

まずは大まかな見取り図を。出典は「千野原靖方「東葛の中世城郭」崙書房出版株式会社 2004年」です。

pa2609217

「標高20メートル前後の国分寺の台地先端部に占地する。その城域は明確ではないが、下総国分寺の敷地を含む台地南東部に、東西約250メートル、南北140~170メートルの範囲にわたって数郭を形成していたと推定され」るそうです。(前掲書)

現在残っているのは土塁跡が2か所。櫓台が1か所。腰曲輪跡が1か所。
順に見ていきます。

見取り図A。土塁跡。

pa24091059

高さ2メートルくらい。長さは3~5メートルくらい。

見取り図B。櫓台跡。

pa24091148

土塁跡に向かい合うような形で櫓台跡があります。写真手前は虎口と推定されるそうです。
土塁と櫓台の間から細い道が住宅地へ下っています。ここからの見晴らしはかなり良く、以前書いた曽谷城跡の高台からの見晴らしによく似ています。

Aの土塁の向こうが腰曲輪らしいのですが、地面が見えないほど草が生い茂っていて全く確認できませんでした。真冬に来れば良かったのかな。

次にDの土塁。残念なことに、土塁があると思われる場所が国分寺の敷地内で、一般客立ち入り禁止の場所でした。門扉の隙間から覗いてみたりしたのですが、断念。
ちなみにこの土塁跡の西側一帯はかつて城下町を表す根小屋という字だったそうです。

国分寺門前の道路沿いの盛土。

pa240914610

「門前の道路沿い(松香園入口わき)には、土塁跡の残痕と思われる盛土が南北にわずかに走っており」(前掲書)と記載のある場所です。
現在は松香園の建て替えに伴って盛土がこんなに小さくなっていますが、たしかに昔はここにもっと大きな盛土がありました。高さも幅も現在の倍あった気がします。
しょっちゅう目にしていた割には、なんで道の脇のこんなところに土が盛ってあるのか、気にもしませんでした。

戦国時代にこのあたりを支配していたのは高城氏だったそうですが、ここが戦国城郭としてどの程度機能したのかなどについては、はっきりとは分からないそうです。

でも一応城跡ですし、ほとんど何も残っていないに等しくても、近所に城跡があるのは嬉しいものです。

庚申塔 | 市川の石造物

9月18日のツイートや昨年12月のブログで登場した「庚申塔」についてのメモ程度の記事です。

【庚申塔とは】
ウィキペデアによると、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

国分5丁目の庚申塔。4丁目と3丁目と接する角にある。下部に猿らしきのが見える。

p9100879280283

市川1丁目と新田5丁目の境にある庚申塔。道標も兼ねている。三猿も彫られている。

ca3i0100277279281282

【庚申講とはなにか】
庚申講とは庚申信仰の信者の集まりのことです。

【どんな教えなのか】
庚申信仰の唯一の教えは、庚申の日は眠らないで一晩中起きているというだけです。
庚申の日の夜、信者が当番の家に集まって、一晩中飲食を共にしてにぎやかに過ごすのです。

【庚申の日とは何なのか】
昔の日本では年や日付を十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥)の組み合わせで表していました。
(例) 甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰というように進んでいく。
十干十二支を順次に組み合わせていくと日付の場合は61日目で、年の場合は61年目で一周します。なので庚申講は60日毎に行われます。

【なぜ庚申の日には眠らないのか】
人の体内には三尸(さんし)という虫が住んでいて、この虫は庚申の日の夜になると眠っている人の体を抜け出して、天帝にその人の過ちを報告しに行くのだそうです。その報告をもとにして寿命が決まってしまうので、虫を外に出さないように、つまり眠らないようにするのです。

【庚申信仰は宗教の闇鍋と言われている】
平安時代の貴族たちのあいだで「守庚申」という行事が行われていて、これも庚申の日に一晩中起きて詩歌管弦などを楽しんだそうです。これがいつのころからか信仰として庶民の間に広まったようですが、その経緯についてはよく分かっていないようです。

体系だった教義らしきものはなく、「庚申教」というものはあるが内容は三尸説の解説書といった内容だそうです
ご利益は、豊作、豊漁、長寿、厄除け、方位除け、良縁祈願、商売繁盛、と何でもありのようです。

信仰なのですからご本尊もあります。庚申堂は青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、庚申社は猿田彦を祀っているそうです。(庚申のお堂やお社があるようです。私はまだ見たことがありません。)

これが庚申塔になると一気に種類が増えます。
仏教系のご本尊として、青面金剛、如来、観音、菩薩、明王、天部の神、荒神など。
神道系のご本尊として、猿田彦、山王権現など
その他、道祖神、岐神、賽神、八衢の神、大田命、都波岐大神など。

「どう分類してもその悉くを尽くすことはできない(「石神信仰」大護八郎)」そうです。

形態もいろいろで、塚、自然石を用いたもの、板状の板碑、宝塔、宝筐院塔(ほうきょういんとう)、灯篭、石祠など。かならずしも塔状ではないのです。

彫ってある内容も一通りではなく、仏像のほか文字を彫ったものもあります。文字は「庚申塔」とそのままのもの。「南阿弥陀仏」など名号、「青面金剛」など祭神の名もあります。

祭神に加えて、鶏や猿が彫られていることも多く、中央に青面金剛、上部に日辰、月辰、下部に鶏と三猿(見ざる言わざる聞かざる)が配されているものが基本形とみなされているそうです。しかし、なぜこれらのものが表されているのか由来はよくわからないようです。

昨年12月のブログで、庚申の申にちなんで猿が彫られると記しましたが、そんなに単純なことではないようです。「庚申信仰」を記した飯田道夫氏は、三猿こそが庚申尊であると述べられています。

庚申塔は一般に供養塔と言われていますが、心願成就の記念碑らしきものや墓碑らしきものあるそうで「一概に供養塔と決めつけてしまうのもどうかと思う。(「庚申信仰」飯田道夫)」そうです。

庚申塔がある場所ですが、村のはずれ、村と村の境に立っていることが多いそうです。

村の境に立っている神様で有名なのは道祖神です。道祖神は徐病の神とされ、昔は疫病は外部から村に侵入してくるものと考えられていたので、それを防ぐために村の境に道祖神が建てられたそうです。
道祖神の正体は猿田彦とされていたので、庚申塔も村の境に建てられることが多いらしいのです。
村の境に建てるので、道標を兼ねている庚申塔もたくさんあります。

庚申塔はバラエティーに富んでいるので被写体として人気があるようです。また雑多なところが探求心をそそるらしく、在野の研究者が多いそうです。

今回参考にした本「庚申信仰」飯田道夫 人文書院 1989年 「日本人の宗教 信仰と習俗」山折哲夫 

まだ読んでいませんが、「庚申信仰の研究」窪徳忠 は庚申信仰のについての唯一の学術的研究だそうです。「庚申待と庚申塔」三輪善之助 は庚申信仰に関する話題の全てが取り上げられていて、昭和10年刊の本ですが今読んでも色あせていないそうです。