カテゴリー別アーカイブ: 土の城

国分城跡を訪ねて|千葉県市川市国分の土の城

最近「東葛の中世城郭」という本を買いました。
その中で「国分城跡」として紹介されてる場所が、近所のよーく知っている場所でびっくり!
あらためて本を携えて訪ねてみました。

まずは大まかな見取り図を。出典は「千野原靖方「東葛の中世城郭」崙書房出版株式会社 2004年」です。

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「標高20メートル前後の国分寺の台地先端部に占地する。その城域は明確ではないが、下総国分寺の敷地を含む台地南東部に、東西約250メートル、南北140~170メートルの範囲にわたって数郭を形成していたと推定され」るそうです。(前掲書)

現在残っているのは土塁跡が2か所。櫓台が1か所。腰曲輪跡が1か所。
順に見ていきます。

見取り図A。土塁跡。

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高さ2メートルくらい。長さは3~5メートルくらい。

見取り図B。櫓台跡。

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土塁跡に向かい合うような形で櫓台跡があります。写真手前は虎口と推定されるそうです。
土塁と櫓台の間から細い道が住宅地へ下っています。ここからの見晴らしはかなり良く、以前書いた曽谷城跡の高台からの見晴らしによく似ています。

Aの土塁の向こうが腰曲輪らしいのですが、地面が見えないほど草が生い茂っていて全く確認できませんでした。真冬に来れば良かったのかな。

次にDの土塁。残念なことに、土塁があると思われる場所が国分寺の敷地内で、一般客立ち入り禁止の場所でした。門扉の隙間から覗いてみたりしたのですが、断念。
ちなみにこの土塁跡の西側一帯はかつて城下町を表す根小屋という字だったそうです。

国分寺門前の道路沿いの盛土。

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「門前の道路沿い(松香園入口わき)には、土塁跡の残痕と思われる盛土が南北にわずかに走っており」(前掲書)と記載のある場所です。
現在は松香園の建て替えに伴って盛土がこんなに小さくなっていますが、たしかに昔はここにもっと大きな盛土がありました。高さも幅も現在の倍あった気がします。
しょっちゅう目にしていた割には、なんで道の脇のこんなところに土が盛ってあるのか、気にもしませんでした。

戦国時代にこのあたりを支配していたのは高城氏だったそうですが、ここが戦国城郭としてどの程度機能したのかなどについては、はっきりとは分からないそうです。

でも一応城跡ですし、ほとんど何も残っていないに等しくても、近所に城跡があるのは嬉しいものです。

中山法華経寺の蓮の花と若宮館跡(若宮城址)

【蓮の花が綺麗に撮れました】

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市川市中山の法華経寺にある八大竜王池の蓮の花です。直径20センチくらい。ボリュームたっぷりで見応えがありました。
あとで聞いたところによると、蓮の花は早朝に咲いて、午前中にしぼんでしまうとか。ここを通りかかったのはお昼頃なのですが、間に合ってよかった。

【亀の放流所?】

蓮の生えている池の一角に、亀がうじゃうじゃいました。周りとはしっかりと区切られていて、亀は蓮の生えている方には行けないようになっていました。

なんでも、亀は蓮の根を食い荒らしてしまうそうなんです。
「蓮・睡蓮を立派に咲かせるためにも亀・鯉等の放流は「亀・鯉池」と表示された場所以外には絶対に放流しない様にお願いします。」という看板が立っていました。

亀はほとんどがミドリガメでした。お店で売っているときは小さくてかわいいけど、育つと30センチにもなるのですよね。
(亀のいる池の写真も撮りましたが、特にきれいなものでもないので載せません。)

【若宮館址(若宮城址)】

法華経寺は日蓮宗のお寺です。
日蓮が布教活動をしていた頃(鎌倉中期)このあたりに富木常忍という人がいて、下総国の守護である千葉縁頼胤に仕えていました。
富木常忍は日蓮の熱心な信者で、みずからの屋敷の敷地内に法華堂を建て、日蓮を迎え入れて説法をしてもらっていました。
さらに、富木常忍は日蓮の死後、法華堂を法華寺として宗教活動に専念しました。
この屋敷跡が現在の奥の院(若宮館跡)です。

鎌倉時代の武士の館は、基本的に正方形で、周囲が土塁で囲まれていました。(方形居館というそうそうです。)
若宮館跡もほぼ正方形で、かなり不完全ながらも土塁が残っています。

若宮館跡をなぜか若宮城址と表記している本もあります。
武士の館が軍事拠点として城郭化することもあるらしいのですが、ここが城郭だったことはないようです。

法華寺が近くにあった、やはり日蓮宗の本妙寺と一体となって、やがて法華経寺と称するようになったそうです。

土塁
この部分は高さ2メートルくらい

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千葉県市川市の曽谷城跡に行ってみました

平成6年発行の本「東葛飾の歴史地理」によれば、市川市内に曽谷城址という中世の古城跡があるらしいのです。

本文中には〈東葛飾地域の主な古城跡〉の地町村別一覧表が載っています。
しかし、それらは大正12年発行の「東葛飾郡誌」と「昭和45年千葉県城郭調査報告」を参考にしているというので少し心細いのです。

ネットで調べてみたら、案内板くらいはあるらしいので行ってみました。

【場所】
曽谷3丁目22番地に案内板が立っていました。
県道264号(高塚新田市川線)沿いのNTTの建物の脇の道を登って少し進んだ場所です。

【地形】
小さな台地です。比高は15メートルだそうです。

【現状】
他の人のホームページにも書かれている通り遺構は残っていません。
台地の上は、ほぼ住宅地です。
「余湖くんのホームページ」では道の脇に城址碑と案内板が立っており、城址碑の脇を右に入っていくと、「唯一、城塁と土塁を残している、腰曲輪状の部分に出ることができる。ただし、土塁は民家の庭の一部になっている。」と紹介されていましたが、今は家が建っています。
現地の案内板には
「現在では台地が崩され、わずかに石井氏宅の裏庭に、土塁と空堀に一部が残されているだけで、曽谷城の全容を知ることはできません。」とあります。
石井氏宅を探してみたのですが、見つかりませんでした。
もっとも、この案内板の記事は昭和56年のものですので仕方ないかもしれません。

【感想】
それでもやはりこんな道を見ると、気のせいか城跡っぽさを感じてしまいます。もとからのものなのか、宅地開発で出来た地形なのかは分かりませんが、住宅地にしては複雑な地形がみられます。
3丁目の案内板が立っているあたりです。

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台地から西の方角を見たところです。

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実際の階段と坂道は写真で見るよりもずっとずっと急です。その向こうは東京都まで見わたすことができます。これなら敵が攻めて来てもすぐに見つけることができそうですし、守るのも楽そうです。

城跡のある台地の遠景。

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写真だとたいしたことなさそうですが、ここから結構長い坂道を上らないとたどり着けません。

この辺り一帯は昔は湿地帯でした。この城が建っていた当時も湿地帯だったとしたら、攻める方はさぞ大変だったでしょうね。

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千葉県柏市の土の城|増尾城址総合公園

西股総生氏の著書「土の城指南」の中で、「遺構の残りがよく、歩きやすい状態が保たれている」「駅近優良物件」と紹介されていた増尾城に行ってきました。

【遺構の様子】
副郭の周りにめぐらされた土塁
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東西約130メートル、南北約45~100メートル、土塁の高さ2.5~3メートル、高さ約20メートル。小規模な舌状の台地を利用して作られた連郭式の城郭です。

現地の見取図によれば

  • 虎口が二か所
  • それぞれの郭は空堀で囲まれている
  • 主郭、副郭それぞれに腰曲郭が張り出している
  • 西南の隅に大規模な張り出し櫓がある
  • 西南方向に堀切がある

土の城初心者の私には残念ながら、腰曲輪、二か所ある虎口のうち一か所、堀切が見分けられませんでした。
それでも、戦国の城の雰囲気を十分に味わうことができました。

【バーベキューのできる広場がある】
城跡のある区画を出て、林の斜面沿いの道を歩いていくと、芝生や子供向け遊具のある広場に出ます。
木々に囲まれた城跡とは対照的な明るい空間です。
バーベキューサイトもあり、大勢の家族連れで賑わっていました。
利用には申し込みが必要だそうです。(「公園の管理事務所にお問い合わせください」とのこと)。

【道順】
私は東武野田線(昨年から「アーバンパークライン」という名になった)増尾駅から徒歩で行きました。約20分かかります。
道順を記しておくのでよかったら参考にしてください。

  1. 東口に出る。出たら右手へ向かう。
  2. 「森の生鮮市場」というスーパーがあり、スーパーに向かって左隣に駐車場があるので、そこを右折する。
  3. バス通りに出るので、出たら左折して直進。信号機の数を数え始めること。
  4. 五つ目の信号を右折。細い道を通り抜けて二車線の道路に出る。出たら左折。最初の交差点の近くに公園の入り口と駐車場がある。

道路に面した入り口から、階段を昇り、「城跡→」という案内板に従って進むと、目の前にぐるりを土塁で囲まれた副郭が現れます。
感動の瞬間です。

増尾城遠景
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写真中央の林の部分が城跡です

里見公園は国府台城だった。古墳と石棺もあった。

表題の通り、市川市にある里見公園は、由緒ある古戦場を記念するため、国府台城があった場所に、市川市がつくった公園だそうです。

わずかに城郭の遺構も残されているというので、確かめに行ってきました。

なれ親しんだ公園を、城郭址だという視点から見てみるとどうなのか。

正門から少しばかり進んだところに、「国府台城跡」という石碑が立っています。黒ずんで字がよく見えなかったので、今まで気が付きませんでした。

石碑の近くには小さな金属の説明版。これによれば、公園内には今でも土塁や空堀のあとが認められるとあります。

少し離れた場所に大きな説明版。これにも公園内に、破壊が激しいながらも、土塁状の城郭遺跡が現存していると書かれています。

ただ、残念なことに、肝心の遺構の場所がはっきりとは示されていません。看板もないし、地図もありませんでした。

公園の北側の土塁(と考えられている場所)については、それらしきものを見つけることができました。
写真を撮りたかったのですが光線の具合が難しくてあきらめました。

あとの遺構は分からないままでした。

あちこちに小高くなった場所があって、その気になると、どこも土塁に見えてきてしまいました。

公園で貰ってきたパンフレットによれば。

江戸川に向かって、コの字型に二重の土塁が築かれていたことが推定できる。
古文書などから、この土塁の外側を空堀が囲っていたことを知ることができる。だそうです。

話はかわって。
公園の北西部分に明戸古墳(あけどこふん)があり、このへんでは珍しい石棺を見ることができます。

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前方後円墳だそうです。

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石棺があるのはこの盛土の上の部分です。

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約400年前に、里見氏と北条氏、総勢2万8千人による合戦が行われた地とは思えない静けさでした。