カテゴリー別アーカイブ: 近隣紹介

小金城(大谷口城)跡|千葉県松戸市の土の城

千葉県松戸市にある小金城跡に行ってきました。

発掘調査によれば、県下最大級の中世城郭だったそうですが、現在は大谷口歴史公園にほんの一部の遺構が残っているだけです。

歴史公園の遠景

公園内では、土塁、虎口、障子掘、畝掘が見られます。
私は、障子堀と畝堀が見たくて訪ねたのですが…。
こんな感じで…。

障子堀

畝堀

発掘当時はこうだったようですが。

障子堀(案内板の写真)

畝堀(案内板の写真)

風雨には勝てません。

障子堀も畝堀も、堀の内部に侵入した敵の動きを封じて、弓矢などで攻撃しやすくするための障害物です。

昔、空堀というものを知ったときは、水がないならすぐ渡れるのではないか、と思ったものですが、武士は重い鎧を付けているし、堀に降りたら敵からの攻撃を遮る物もないのでそう簡単に越えられるものではないのでしょうね。。

宅地造成の際に発掘調査が行われたそうで、園内の案内板には、土塁や堀の跡を重ね合わせた空中写真が掲示されています。
9~10の曲輪がつながった形状だったと予想されています。現在の常磐線と流鉄流山線とまてばしい通りに囲まれた一帯が城域だったようです。南北約600メートル、東西約800メートルという城域は、東京ドームのグラウンドの面積と比べると約37倍の広さです。

歴史公園から西へ200メートルほどの場所には、馬屋敷跡が緑地として整備されています。

築城年はよくわかっていませんが、1500年代半ばには籠城戦に耐えられる規模になっていたようです。
城主の高城氏は秀吉の小田原攻めの際に北条方に付いたのですが、城は一戦もせずに明け渡され、建物は灰燼に帰したといわれています。

最寄り駅はJR常磐線北小金駅です。
駅の北口を出て右方向へ進み、大きな道路(まてばしい通り)に出たら左へ曲がり直進します。セブンイレブンを通り過ぎると信号があり、左に道が2本V字状に出ているので、向かって右の道に行きます。すぐに丁字路に突き当たり、正面に大勝院幼稚園が見えます。右へ曲がって3分くらいで公園の入り口が見えてきます。

参考文献
千野原靖方 東葛の中世城郭 崙書房出版 2004

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二十世紀梨発祥の地は松戸ではなく千葉県市川市八幡かもしれないというお話|千葉県は梨の産地として有名です

二十世紀梨は、松戸の覚之助という人によって栽培が始まったといわれ、千葉県松戸市二十世紀が丘梨元町には、発祥の地の記念碑まで建っています。

ところが、その二十世紀梨の苗は、市川市八幡で発見されたという興味深い記事を見つけたのでその抜粋を載せました。

昭和34年に市川毎日新聞社から発行された「市川市市制25周年記念 市川の思い出」という本の中に、農業を営む北川善太郎さんという方の話として、載っていた記事です。

八幡の梨のはなし

「八幡の梨は今も有名だが、昔は千葉県で梨の出るところは此処だけだったのですよ。
八幡の梨を初めてつくったのは、今から180年ばかり前、八幡の住人の川上善六という人だが、八幡は梨づくりには最も適した土地だったのですよ。砂地でね。私たちはこの砂地に梨の木を植えましたのが ―中略― 八幡に松の木が多いのも、梨畑の防風林のつもりで植えたのが初めでね、昔は南風が強く吹いたものですが、又そのため梨の木が他所に比べておいしい原因ともなっています。」(P49)

1896年~1909年の八幡の地図。果樹園の記号がたくさんあります。

二十世紀も八幡が発祥地

「一番うまい梨だといわれている二十世紀という梨は、松戸の覚之助という人が、60年程前に栽培して売り出したとされているけど、あの二十世紀は、もとは八幡の稲荷神社の境内に自然に生えた梨なのですよ。松戸の覚之助のお父さんがね、何といったか名前は忘れたが、その人がある年、八幡様の農具市にやってきた時、八幡の親戚の家に遊びに立ち寄った。当時、今の市役所の近くに稲荷神社があってね、その境内に色のかわった梨がなっていた。これを見たその人がね、「これは面白い梨だ」とそのなしの“ボ”をもって帰って、自分の家の梨の木についでみた。そうすると何とウマイ梨が出来てね。息子の覚之助さんの代になってから「二十世紀」という名前を付けて売り出したところ、これが大当たりー略―」(P50)

以上ですがなかなか興味深いです。

現在、二十世紀梨はこの辺ではあまり見かけませんが、九十九里海岸の辺りでは栽培されています。
西日本で栽培が盛んらしく、生産額が一番多いのは鳥取県です。

千葉県内でよく見かけるのは、幸水,豊水などの皮の赤い品種です。
千葉県は栽培面積・収穫量・産出額ともに全国第1位になっています。 

地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)から使用させていただきました。

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葛飾湧水群|千葉県船橋市の湧水

千葉県船橋市の西船を中心とした地区には、小さな池がいくつか見られます。これらは葛飾湧水群といわれています。

葛飾神社の池(西船5丁目)
住宅地の中のささやかな池。
国道14号の競馬場入り口のバス停があるあたりから細い道を南に下ったところにあります。

二子裏の池(東中山1丁目)
国道14号沿いの東中山児童公園から少し西へ行ったところにある池。

二子藤の池(東中山1丁目)

多聞寺の国道14号をはさんだ向い側にある池。

以上は国道14号沿いにある湧水池です。

このほか国道14号の北側にゲエロの池(印内1丁目)、葛羅の井(西船6丁目)があります。

船橋市は、環境にやさしいまちづくりのモデル事業として、これらの池の整備に取り組んでおり、保存会や町内会、神社などが維持管理にあたっています。

都市化によって姿を消した湧水池もあったようで、西船5丁目にある勝間田公園はもとは勝間田の池といい、葛飾川の谷の出口にあった湧水池だったそうです。
ちなみにこの葛飾川は現在では暗渠化しています。

【このあたりに湧水が多い理由です】

湧水とは地下から湧き出した水のことですが、どこからでも湧き出すわけではありません。
湧水はほとんどの場合、台地の周縁に沿って湧き出します。

湧水があるためには、以下の条件が必要だからです。

・雨水が台地の地面にしみ込むこと。
・しみ込んだ雨水が地下水として地中に貯えられること。
・地下水が地表に現れるための出口があること。

船橋は市の北部に台地が広がっていて、ちょうど西船の辺りが台地の辺縁にあたるようです。

と、ここまで読んできて、台地の都市化が進んだ今でも、きちんと水が湧いているのか疑問に思いませんでしたか?私は疑問でした。

地元の史跡に詳しい人の話では、「少しかもしれないが水は湧いているのだろうと思う。例えば(葛飾湧水群の一つ)ゲエロの池はとても小さいのに日照りが続いても水が枯れないから。」ということでした。

参考:宮原武夫 船橋の歴史散歩
   船橋市観光協会
   市立市川自然博物館 市川自然博物館だより 12・1月号  1998年1月10日発行

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京成線の「京成西船駅」が「葛飾駅」だったこと|船橋市西船

現在の京成線西船駅は、昭和62年までは「葛飾」(かつしか)」という駅名でした。大正5年に駅が開設された当時のこの辺りの地名が「葛飾村」だったからです。

【葛飾って東京都の地名ではないのか?】

たしかに寅さんで有名な柴又は葛飾区ですが・・・。
葛飾は万葉集にもみられる古い地名で、現在の東京都、千葉県、埼玉県、茨城県にまたがる地域だったそうです。

それが17世紀頃に、下総国葛飾郡(主に千葉県の辺り)と武蔵国葛飾郡(主に東京、埼玉)に別れ、さらに明治11年に、東葛飾郡、北葛飾郡など幾つかに分かれたそうです。

国道14号沿いの葛飾神社。

葛飾郡の総社として一千年の歴史があるそうです。

【西船駅周辺の地名の大まかな変遷です】

●明治11年、郡区町村編制法施行により、東葛飾郡を設置。
現在の市川市、松戸市、野田市、流山市、浦安市の全域と船橋市、柏市の一部や鎌ヶ谷市、埼玉、茨城の一部までを含んだ部分が東葛飾郡という行政区画になった。

●明治22年、町村制施行。
西海神、山野、印内、古作、寺内、本郷、二子、小栗原の八村が合併して「葛飾村」になる。

●昭和6年「葛飾村」が「葛飾町」になる。

●昭和12年、葛飾町、船橋町、八栄村、法典村、塚田村が合併して「船橋市」になる。

●昭和41~42年、「西船」誕生。
住居表示の変更があり、西船1丁目から西船7丁目が誕生しました。
京成西船駅(旧葛飾駅)の住所は葛飾町2丁目でしたが、昭和42年6月の町名変更で、西船4丁目になりました。

それから20年後の昭和62年。
西船という地名が浸透してきたため、「葛飾駅」も「京成西船駅」と改称されたそうです。

【東葛飾のその後】

平成17年3月28日、東葛飾郡沼南町が柏市に編入されたため、東葛飾郡は消滅しました。

JR総武線西船橋駅の南側には今でも「葛飾町」という町名が残っています。

東葛飾郡(だった場所)の南部は現在でも葛南と呼ばれることがあります。
松戸市の辺りは東葛と呼ばれることがあります。

(ブログを書くにあたって、西船駅上りホームの案内板「葛飾の地名とその由来」及び船橋のホームページを参考にさせていただきました。)

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小栗原城址|千葉県船橋市本中山の土の城

土の城に関する記事もいつの間にか7本目です。今度の城跡も恐ろしく地味です。

さて、京成線で成田方面に向かうとき、中山駅と東中山駅の中間の進行方向右側に、樹木が生い茂った小高い場所があって通るたびに気なっていました。なんか城址みたいだと思って。

昨年「東葛の中世城郭」という本を購入してみたら、例の気になる場所が「小栗城址」として紹介されていました。

【旧小栗原村(古くは小栗郷)の低地帯に向かって突出していた標高二十メートル前後の舌状台地先端部にあった城跡で、「城の台城」とも呼ばれている。-中略―台地南下には「城之下」という地名が残る。】(「東葛の中世城郭」P44より)

写真は台地の東側の切通しです。写真の右側が台地で、上には稲荷神社が建っています。
京成線の車窓からだと全景が見えるのですが、現地だと引きが取れなくて一部分しか写せません。

ここから南東約200メートルの場所に多聞寺というお寺があり、墓地の部分がかなりの高台になっています。

写真は多聞寺の西側から眺めです。木の茂っている場所が墓地です。

もともとは稲荷神社の高台と多聞寺の高台はつながっていて一つの城域だったそうです。
それが明治時代に旧総武鉄道や京成線の工事の際に削られてしまい、現在の形になったそうです。もともとの城域は東西約200メートル、南北約150メートルほどと推定されるそうです。

さらに前掲書によれば、多聞寺背後の台地(墓地になっている場所)の東方、東中山1丁目13番地の台地辺縁に小社や石祠が祀られている樹林の茂った一角があり、この樹林付近に遺構らしき気配が感じられるが、果たして土塁などの痕跡であるのか確定し得ないということです。

多分この場所だと思うのですが、台地に上る階段の入り口が閉ざされていて、上に上ることはできませんでした。

この近くの三峰社にも遺構らしきものあるということで、虎口に設けられた櫓台の跡かもしれないそうですが、残念ながら今回その神社を見つけることが出来ませんでした。

これでおしまいです。わかりやすい写真が撮れなくて心残りです。

現地へは京成線東中山駅から歩いて行けますが、台地以外に見るべき遺構はありませんのであしからず。

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船橋市地方卸売市場と船橋城址|千葉県船橋市市場一丁目8-1

【船橋市地方卸売市場に行ってみました。築地みたいに一般向けのお店はあるのかな?】

前から気になっていた船橋市地方卸売市場(平成26年3月までは中央卸売市場)へ行ってきました。

一般客も利用できます。私は北口から入ったのですが、ガードマンのおじさんが親切に、一般向けのお店がある場所を教えてくれました。さらに場内でキョロキョロしていたら駐車場の係の人がやはり親切に道を教えてくれました。

【正門から入りましょう】
一般向けの店舗や食堂は、正門を入って左手に郵便局を見ながら進んだ場所にあります。
場内は広いので、私のように別の入り口から入ると、苦労します。

【一般向けの店舗はこんな感じです】

関連事業者店舗棟という2階建ての建物の1階部分がお店と食堂になっています。
土地柄か、海苔を扱うお店が多かったです。
その他には、乾物、漬物、精肉、お茶、鰹節、鶏卵、包装資材、履物衣料など。
飲食店は、づけ丼や海鮮丼、煮魚の定食を提供している、いかにも「市場の食堂」なお店のほか、洋食や中華、なぜかインドカレーの店も。
気になるお値段は、800円~1000円前後というところでしょうか。

私は「市場カフェ」というお店でアイスコーヒーとホットドッグをいただきました。アイスコーヒーがとても美味しかったです。

【混んでいるの?】
私が行ったのは月曜日の10時半頃ですが、場内に人影はまばらでした。築地のような賑わいを想像していくと、少し寂しさを感じてしまうかもしれません。

【市場の真ん中を川が流れている】
敷地内を海老川が横切っていて、ジョギング中の人やママチャリで移動中の人とすれ違いました。正門や北門を通らなくても、川沿いに入れちゃうのです。

【船橋城址といわれている】
市場に隣接するアパートの辺りから正門を入ってすぐの駐車場までの一帯は、船橋城址であったと伝えられている場所です。
古くはこの地に植えられた松を「城の腰松」と呼んでいたそうです。
このページのトップの写真で木が茂っているあたりが、城の腰松があった場所だそうですが、今は飛行機工場の爆発事故の鎮魂碑と「将門の松」という石碑があるだけです。

*船橋市地方卸売市場は最初、船橋市中央卸売市場として始まりましたが、平成26年4月1日から地方卸売市場に転換しました。過去の書籍やネットの記事に中央卸売市場となっているのはそのためです。

参考
千野原靖方「東葛の中世城郭」崙書房出版2004年
船橋市ホームページ

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市川市の暗渠・平川用水路|千葉県市川市

【「暗渠サイン」とは】
「暗渠マニアック!」という本によると、ある道路が暗渠かどうか見分ける目印として、「暗渠サイン」というものが紹介されています。その中から3つほど紹介すると。

・車止めがある(暗渠の蓋は重量物に弱いので)
・近くに銭湯など大量の水を扱う施設がある
・行政境界である(水路を境にして区分けされることがあるので)

さて、上の条件に当てはまる道が市川市国分3・4丁目と国府台1丁目・真間5丁目の境にあります。
じゅんさい池公園から南南東へ延びる3本の道のうち、真ん中の道で、県道264号線まで約1500m続きます。

県道264号に交わる場所。向こうに伸びている道が元の平川用水路。この辺りは車が通れる。

車が通れない区間。下に下水道が通っている様子。

【昔この道は用水路でした】
この道は、暗渠です。
私が初めてこの道を見た四十数年前、ここは道ではなく、広~い田園地帯を横切る一本の用水路でした。名前は平川用水路といいます。
このあたりは二つの丘陵に囲まれたいわゆる「谷地」という地形で、その真ん中をじゅんさい池から国分川に向かって平川用水路が流れていました。

【いつから暗渠になったのか】
用水路の国分川に近い場所は、早くから宅地化して用水路も暗渠になってしまったのですが、じゅんさい池に近い方は80年代末頃まで暗渠化を免れていました。用水路の周りには畑が広がって、春にはヒバリが囀っているのどかな場所だったのですが。(懐かしい)
でも、ある時気が付いたら普通の道になっていました。いつの間に…。最近になってすごく気になりだし、図書館で昔の地形図等を調べてみました。

自分の記憶では1982年までは用水路があったので、1985年発行の市川市都市計画図を見てみたら、既に用水路はない。

念のため1981年の国土地理院地形図を見ると、用水路の場所は細い黒線になっていて、これは幅1.5~2.5m未満の道路を表しているのですが、まだ暗渠化していない用水路の脇の小道を表しているのではないかと思います。

同じ場所が1990年発行の地形図では2本の実線で表されていて、これは幅3.0~5.5m未満の道路を表すので、もう暗渠化して立派な道路になったということですね。

図書館の地図コーナーからはこれ以上の情報はわかりませんでした。

畑だった場所も、今ではすっかり住宅地に変わりました。用水路も暗渠というよりは立派な道路になっているので、暗渠マニアには物足りないかもしれません。

じゅんさい池を背にして元の平川用水路を見る。

上の写真の撮影地点の近くに江戸時代の庚申塔があった。

【平川用水路はいつできた?】
ところで、明治時代の地図「関東平野迅速測図」(1880-1886)を眺めていたら、平川用水路が載っていないことに気が付きました。(他の水路等は記載されている)今度はいつ頃この用水路が作られたのかが気になっています。

参考図書: 吉村生, 高山英男「暗渠マニアック! 」2015柏書房

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国分城跡を訪ねて|千葉県市川市国分の土の城

最近「東葛の中世城郭」という本を買いました。
その中で「国分城跡」として紹介されてる場所が、近所のよーく知っている場所でびっくり!
あらためて本を携えて訪ねてみました。

まずは大まかな見取り図を。出典は「千野原靖方「東葛の中世城郭」崙書房出版株式会社 2004年」です。

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「標高20メートル前後の国分寺の台地先端部に占地する。その城域は明確ではないが、下総国分寺の敷地を含む台地南東部に、東西約250メートル、南北140~170メートルの範囲にわたって数郭を形成していたと推定され」るそうです。(前掲書)

現在残っているのは土塁跡が2か所。櫓台が1か所。腰曲輪跡が1か所。
順に見ていきます。

見取り図A。土塁跡。

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高さ2メートルくらい。長さは3~5メートルくらい。

見取り図B。櫓台跡。

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土塁跡に向かい合うような形で櫓台跡があります。写真手前は虎口と推定されるそうです。
土塁と櫓台の間から細い道が住宅地へ下っています。ここからの見晴らしはかなり良く、以前書いた曽谷城跡の高台からの見晴らしによく似ています。

Aの土塁の向こうが腰曲輪らしいのですが、地面が見えないほど草が生い茂っていて全く確認できませんでした。真冬に来れば良かったのかな。

次にDの土塁。残念なことに、土塁があると思われる場所が国分寺の敷地内で、一般客立ち入り禁止の場所でした。門扉の隙間から覗いてみたりしたのですが、断念。
ちなみにこの土塁跡の西側一帯はかつて城下町を表す根小屋という字だったそうです。

国分寺門前の道路沿いの盛土。

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「門前の道路沿い(松香園入口わき)には、土塁跡の残痕と思われる盛土が南北にわずかに走っており」(前掲書)と記載のある場所です。
現在は松香園の建て替えに伴って盛土がこんなに小さくなっていますが、たしかに昔はここにもっと大きな盛土がありました。高さも幅も現在の倍あった気がします。
しょっちゅう目にしていた割には、なんで道の脇のこんなところに土が盛ってあるのか、気にもしませんでした。

戦国時代にこのあたりを支配していたのは高城氏だったそうですが、ここが戦国城郭としてどの程度機能したのかなどについては、はっきりとは分からないそうです。

でも一応城跡ですし、ほとんど何も残っていないに等しくても、近所に城跡があるのは嬉しいものです。

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庚申塔 | 市川の石造物

9月18日のツイートや昨年12月のブログで登場した「庚申塔」についてのメモ程度の記事です。

【庚申塔とは】
ウィキペデアによると、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

国分5丁目の庚申塔。4丁目と3丁目と接する角にある。下部に猿らしきのが見える。

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市川1丁目と新田5丁目の境にある庚申塔。道標も兼ねている。三猿も彫られている。

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【庚申講とはなにか】
庚申講とは庚申信仰の信者の集まりのことです。

【どんな教えなのか】
庚申信仰の唯一の教えは、庚申の日は眠らないで一晩中起きているというだけです。
庚申の日の夜、信者が当番の家に集まって、一晩中飲食を共にしてにぎやかに過ごすのです。

【庚申の日とは何なのか】
昔の日本では年や日付を十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・申・酉・戌・亥)の組み合わせで表していました。
(例) 甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰というように進んでいく。
十干十二支を順次に組み合わせていくと日付の場合は61日目で、年の場合は61年目で一周します。なので庚申講は60日毎に行われます。

【なぜ庚申の日には眠らないのか】
人の体内には三尸(さんし)という虫が住んでいて、この虫は庚申の日の夜になると眠っている人の体を抜け出して、天帝にその人の過ちを報告しに行くのだそうです。その報告をもとにして寿命が決まってしまうので、虫を外に出さないように、つまり眠らないようにするのです。

【庚申信仰は宗教の闇鍋と言われている】
平安時代の貴族たちのあいだで「守庚申」という行事が行われていて、これも庚申の日に一晩中起きて詩歌管弦などを楽しんだそうです。これがいつのころからか信仰として庶民の間に広まったようですが、その経緯についてはよく分かっていないようです。

体系だった教義らしきものはなく、「庚申教」というものはあるが内容は三尸説の解説書といった内容だそうです
ご利益は、豊作、豊漁、長寿、厄除け、方位除け、良縁祈願、商売繁盛、と何でもありのようです。

信仰なのですからご本尊もあります。庚申堂は青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、庚申社は猿田彦を祀っているそうです。(庚申のお堂やお社があるようです。私はまだ見たことがありません。)

これが庚申塔になると一気に種類が増えます。
仏教系のご本尊として、青面金剛、如来、観音、菩薩、明王、天部の神、荒神など。
神道系のご本尊として、猿田彦、山王権現など
その他、道祖神、岐神、賽神、八衢の神、大田命、都波岐大神など。

「どう分類してもその悉くを尽くすことはできない(「石神信仰」大護八郎)」そうです。

形態もいろいろで、塚、自然石を用いたもの、板状の板碑、宝塔、宝筐院塔(ほうきょういんとう)、灯篭、石祠など。かならずしも塔状ではないのです。

彫ってある内容も一通りではなく、仏像のほか文字を彫ったものもあります。文字は「庚申塔」とそのままのもの。「南阿弥陀仏」など名号、「青面金剛」など祭神の名もあります。

祭神に加えて、鶏や猿が彫られていることも多く、中央に青面金剛、上部に日辰、月辰、下部に鶏と三猿(見ざる言わざる聞かざる)が配されているものが基本形とみなされているそうです。しかし、なぜこれらのものが表されているのか由来はよくわからないようです。

昨年12月のブログで、庚申の申にちなんで猿が彫られると記しましたが、そんなに単純なことではないようです。「庚申信仰」を記した飯田道夫氏は、三猿こそが庚申尊であると述べられています。

庚申塔は一般に供養塔と言われていますが、心願成就の記念碑らしきものや墓碑らしきものあるそうで「一概に供養塔と決めつけてしまうのもどうかと思う。(「庚申信仰」飯田道夫)」そうです。

庚申塔がある場所ですが、村のはずれ、村と村の境に立っていることが多いそうです。

村の境に立っている神様で有名なのは道祖神です。道祖神は徐病の神とされ、昔は疫病は外部から村に侵入してくるものと考えられていたので、それを防ぐために村の境に道祖神が建てられたそうです。
道祖神の正体は猿田彦とされていたので、庚申塔も村の境に建てられることが多いらしいのです。
村の境に建てるので、道標を兼ねている庚申塔もたくさんあります。

庚申塔はバラエティーに富んでいるので被写体として人気があるようです。また雑多なところが探求心をそそるらしく、在野の研究者が多いそうです。

今回参考にした本「庚申信仰」飯田道夫 人文書院 1989年 「日本人の宗教 信仰と習俗」山折哲夫 

まだ読んでいませんが、「庚申信仰の研究」窪徳忠 は庚申信仰のについての唯一の学術的研究だそうです。「庚申待と庚申塔」三輪善之助 は庚申信仰に関する話題の全てが取り上げられていて、昭和10年刊の本ですが今読んでも色あせていないそうです。

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遺言書セミナーに登壇します(平成28年10月15日、市川市JR本八幡駅前)

NPO法人いちかわライフネットワーククラブさま主催の遺言書セミナーに、私、高橋求が登壇いたします。

題して「うちは関係ない!と今思った方のための やさしい遺言書セミナー」です。

平成28年10月15日(土)13:30~14:30
JR本八幡駅南口1分、いちかわ情報プラザで開催します。

遺言書なんて自分のうちには関係ないと思っていらっしゃる方に向けて、「遺言書は家族への思いやり」であることを、お話しいたします。

「遺言書のことは気にはなるけど、でも積極的にはなれないのよぉ」という方は、ぜひぜひこの機会に私の話を聞いてください。

  • 遺言書について本を読むのが億劫な方、1時間の話を聞くだけです。
  • 遺言書に関して実感のわかない方、実感できるお話しをお聞かせします。
  • 分からないことは、その場でご質問いただけます。

主催者の作成したポスターです。

i-lnc遺言書セミナーポスター

主催・申込先
いちかわライフネットワーククラブ パソコン教室プラザ☆PC
電話 047-314-0811
プラザ☆PCホームページ i-lnc-plazapc.jimdo.com

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