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鷹取山ハイキング|神武寺駅から鷹取山へ登ってきた

地元市川から手軽に行ける低山、横須賀市の鷹取山に行ってきた。
市川からJR総武横須賀線と京急線に乗って約2時間。
ごつごつした岩場の様子から”湘南妙義”の異名もある山で、ちょっとした鎖場もある。

京急の神武寺駅からのルートと、横須賀線の東逗子からのルートがあるが、今回は神武寺駅ルートで行った。
このルートは、前半は小さなせせらぎのある谷あいの道を通り、後半は尾根道を歩く。

神武寺駅を出て、県道226号を左に進み、逗子中学校のグラウンドの角で右折すると鷹取山ハイキングコースが始まる。小さい案内板も出ている。最初は舗装路だが、少し進むと老人ホームがあり、そのあたりから本格的な山道になる。
鷹取山は、明治から昭和の初期にかけて石材を採取していた山で、山道に入ってすぐに石切り場の跡が出てくる。

渓流沿いの道は樫の木などの常緑樹に覆われて薄暗く、苔むした岩がゴロゴロしていたり、大きなシダが群生していたりする。鎌倉に行った時も思ったのだが、三浦半島って、町のすぐ脇がいきなり山になっている。
しばらく谷沿いの道を進んだあと、山腹の急坂を登って尾根道に出るとやがて神武寺に着く。本堂らしき建物が尾根道から木々の間を通してひっそりと建っているのが見えた。残念ながら一般客は立ち入れなかった。薬師堂とその周辺はお参りできた。
薬師堂の左脇の石段を登ってハイキングを続ける。神武寺までは木に覆われた湿っぽい道だったが、このあたりから乾いた尾根道が続く。展望も次第に開けてきた。

こんな場所をすり抜けていく

鷹取山が近づくにつれて、露岩が多くなってきたと思っていたら、鎖場が現れた。子どもでも十分通れる程度だがやっぱり楽しい。ついつい写真撮影も夢中になってしまう。

ゴール地点の鷹取山は、高さは139メートルしかないものの、石を切り出した後の垂直に切り立った岩場が点在する面白い光景。この辺一帯は鷹取山公園として横須賀市が整備する公園になっている。
公園には展望台があって、雪を頂いた丹沢や富士山のほか、江の島や伊豆半島や房総半島も見えた。
そして、目を引いたのがクライミングをしている人たち。低い岩ではボルダリングを楽しむ人たちがいた。ボルダリングジムよりずっと空いているし、青空の下で登るのは気持ちよさそう。いいなぁ。
あとで調べてみたら、ここはクライミングやボルダリングのゲレンデとしてかなり有名な場所だそうだ。

展望台とクライミングをしている人々

様々な高さの岩かそびえている。岩に開いた穴はクライミング用の楔の穴だそう。

展望台のある場所から少し離れたところに摩崖仏がある。きれいなお顔立ちの仏像でかなり大きい。横須賀市在住の彫刻家、藤島茂氏が昭和35年から約1年かけて製作したもので、弥勒菩薩だそう。

公園の中心部からはずれた場所にも、所々、林の間に石切り場跡が残っている。中にはまるで遺跡のようなものもあった。

帰り道は、予定していた京急田浦への道が通行止めになっていたので、追浜駅から帰った。やはり2時間くらいで帰れた。
ガイドブックではルートタイムが2時間(5.1Km)だったが、あちこちで写真を撮りながら歩いていたので4時間くらいかかったが、まだ明るいうちに家に着いた。

ご注意
鷹取山でクライミングやボルダリングをする人は鷹取山安全登山協議会への登録が必要です。
神奈川県山岳連盟ホームページで登録用紙がダウンロードできます。

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市川城跡|千葉県市川市の土の城

市川市内で有名な中世城郭跡としては、国府台城跡があります。

時代小説では国府台城を市川城と呼んでいる場合もあり、2つの城は同じものとして扱われています。

しかし、中世東国史の専門家である千野原靖方氏は著書「東葛の中世城郭」の中で、市川城と国府台城を別のものと考え、市川城が「弘法寺の道場・宗教施設があった砂州上に存在したかあるいは(中略)弘法寺敷地を含む真間の台地上にあったと思われる。いずれにしても、同寺施設を利用した城であったことが推定される」と述べています。

【弘法寺のロケーション】

市川市の国府台から東南へ延びる舌状台地南部の辺縁地域に位置しています。
南北約150メートル、東西約500メートル。比高は15メートルから17メートルです。

【土塁と切通し】

仁王門に向かって右手(東の方向)に盛り土があり、鐘撞堂が建っています。
盛り土は東に向かって約40メートルほどのびており土塁状になっています。

土塁の上、鐘撞堂を背に東方を見たところ

本堂の右手奥にも盛り土があります。前掲書によればこの盛り土は東西に走っていることになっており、私自身の記憶でもその通りなのですが、今回見に行った時は、かなりの部分が削られてしまっていました。

県道1号線から弘法寺へ向かう道は深い切通しの道になっています。
前掲書では「この道は、台地主体部から断ち切った大堀切のような形態」と表現されています。

千野原氏によれば「市川城は、真間山弘法寺敷地内の土塁・盛り土などで囲まれた施設を中心として、北側を土塁及び空堀・堀切で台地主体部から断ち切って築かれた寺院を要害化した宗教色の濃い城であったと推定される」そうです。

弘法寺は日蓮宗の寺院です。日蓮宗の寺院には要害としての機能・施設を備えた寺が多くみられるそうです。

ところで、先の鐘撞堂が建っている土塁ですが、地元の考古学者のうちには古墳ではないかと考える人たちもいるそうです。

現に敷地内には今でも円墳と前方後円墳が存在していますが、土塁を作るときにこのような元からあった古墳を利用した可能性も考えられるとのことです。

真間山 弘法寺 住所 千葉県市川市真間4-9-1
JR市川駅より   徒歩20分    
京成市川真間より 徒歩15分
京成国府台駅より 徒歩10分

参考 : 千野原靖方 「東葛の中世城郭」 崙書房出版 2004年

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鎌倉アルプス・獅子舞の谷から天園ハイキングコース

林の中を、せせらぎの音を聞いたり、鳥のさえずりに耳を傾けたりしながら、自分のペースでゆったり歩く。楽しいですよね。

山がちな日本では、森林は山地にあるもの。ですが、私は自然を楽しみたいだけなのです。坂道は登りたくないのです。
そんな自分におあつらえ向きのハイキングコースがありました。

鎌倉アルプス。
鎌倉市街を取り囲む丘陵の最も高い部分、建長寺から瑞泉寺にかけての尾根道を行くハイキングコースです。別名天園ハイキングコース。

コースタイムは約2時間から3時間。ガイドブックによってコースが多少異なっているのですが、長くても3時間台だと思います。
有難いのは、標高が最も高いところでも約159メートルということ。坂道をゼイゼイしながら歩かなくても、豊かな自然を満喫できます。

装備もガチでなくても大丈夫。ただ、不安定な岩場を何度も通過するので、捻挫グセのある人はハイカットのトレッキングシューズをはいたほうがいいかもしれません。
この間行った朝比奈切通しと違い、道標も整備されていました。

ガイドブックなどを見ると、丘陵を西から東に向かうのが一般的なようですが、今回は獅子舞の谷を登って尾根に合流し、東から西へ向かって歩いてきました。

このコースの中では、獅子舞の谷が一番気に入りました。歩き始めは、二階川に沿って谷あいの道を行く、沢登りのような小道。周りを鬱蒼とした木々に囲まれた谷筋の道です。

やがて開けた場所に出ます。散り積もった落ち葉と青々とした笹の葉、すっかり落葉した木々のコントラスト。冬枯れの景色が好きな人にはきっと気に入ってもらえる風景です。

二階川の源流を見ることもできます。

このまま登ると鎌倉アルプス(天園ハイキングコース)に合流します。
バラエティに富んだ道で楽しいです。
ロープを伝う場所もあります。(高さは2メーターもなさそうでしたが)

獅子舞の谷は、紅葉の時期は混み合うらしいのですが、私の行った時期は人も少なくて静かな山歩きを楽しめました。

行き方
ネットなどでは、JR鎌倉駅よりバス大塔宮行 「大塔宮」下車とありますが、鎌倉駅から徒歩で行けます。バス通りに沿って歩いて「大宮塔」まで来たら、瑞泉寺方面へ歩いて行きます(注:あくまで方面です。瑞泉寺に着いてしまったら行きすぎです)。永福寺跡(公園になっています)の先を曲がって住宅地へ入ると、変電施設がありその先から沢筋の道が始まります。
といっても、入り口までは実はとてもわかり難いので、スマホの地図アプリの活用をお勧めします。電波は届きます。
入り口までたどり着けば後は一本道なので迷うことはないと思います。

入り口付近の景色

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八王子城に行ってきました|東京都八王子市の土の城

土の城シリーズの9回目は、初めての山城です。ちょっと足をのばして国史跡八王子城を見てきました。

この城の本丸跡は標高446メートル。
高尾駅から八王子城の管理棟までは舗装路ですが、管理棟を過ぎると登山口(?)のような場所があり、結構急な山道(もちろん未舗装)が始まります。
本丸跡までは40~50分です。

ルートは2種類あって、行きは古道を通りました。
古道は山腹につけられた道で、まわりは杉林が鬱蒼と茂って薄暗く、道幅は一人分しかありません。その道もⅤ字型に深くえぐれていて、補修のために丸太や大き目の石が敷かれていますが、丸太が滑ったり、石で足首を捻りそうになりました。

歩き始めてすぐのところで、ボランティアガイドさんに出会ったのですが、「上まで行くの?大変だよ。登るのもだけど、下りが大変だよ。」といわれました。
その方は、真っ直ぐな木の枝を杖代わりにしていたので、私も真似して道の脇に立てかけてあった竹の棒を使わせてもらいました。助かりました。(本丸で会った中高年の団体さんは皆、トレッキングポールを持っていました。)

そうして薄暗い林の斜面に付けられた急な小道を登っていくと、「金子曲輪」が現れます。
ここから別の道へも行けますが、私はまた古道に戻ってひたすら登りました。

本丸の近くになると道幅も広くなり、石段が造られている場所もありました。

そして「松木曲輪」「小宮曲輪」が現れます。

途中で八王子市内が見渡せる場所があります。

八王子神社に近いところでは道がなだらかになりますが、神社を過ぎてからもうひと登りします。
汗だくになりながら、本丸到着。

すごく狭いので、建造物などは無かったと考えられているそうです。

下りは尾根筋に付けられた道を通りました。古道よりも歩きやすい道でした。
金子曲輪から続く尾根がひな壇状になっている場所がありましたが、敵を防ぐための工夫なのだそうです。

この城は、小田原に本拠をおいた北条氏の三代目氏康の三男、北条氏照が築いた城だそうです。
天正10年(1582)頃に築城が開始されましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、前田利家・上杉景勝の軍勢に攻められて、わずか半日で落城したそうです。
広大な城郭ですが、落城時はまだ未完成であったと考えられています。

山のふもとには虎口の跡があります。当時の石垣や石畳をなるべく利用して、できるだけ忠実に復元したそうです。これはなかなかに立派なものでした。

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鎌倉の朝比奈切通しに行ってきた

先週、朝比奈切通し、熊野神社、十二所果樹園をハイキングしてきましたが、思っていたよりも山深くて、途中あせりを感じた話です。

一番見ごたえがあった場所。横に立っている人と比べるとスケールがよくわかる。

熊野神社入り口。本殿はまだまだ先。

熊野神社

【事前の予想】
・地図やグーグルアースで場所を確認すると、切通しのある丘陵地帯の際まで住宅等が建っていたので、地元市川市でいったら小塚山程度の感覚でいた。
・有名な観光地なので、当然、道標も整備されていると思っていた。
・切通しを抜けるだけなら1時間もあればいいらしいので、そこに熊野神社や果樹園を加えても2~3時間でまわれると考えていた。
・果樹園は、展望台があるくらいだから自動販売機くらい置いてあるだろうと勝手に決めていた。
・そもそもそんなに山の中だと思わなかった。

実際は苦しい誤算と嬉しい誤算が。

【苦しい誤算】

道標は全くと言っていいほどない。特に熊野神社から果樹園に行く道は道標がない。
・果樹園近くの道はアップダウンがあって喉が渇くが、どこにも自動販売機はない。
・写真を撮りながら歩いたせいかもしれないが、3時間半以上はかかった。

【嬉しい誤算】

・すぐそこが市街地とは思えないほどの自然。バス停から10分ぐらいでこんな景色。

・果樹園も、展望が素晴らしいく、イスとテーブルがあるほかは、手つかずの自然が残されている。あそこに自販機があったら興ざめ。
・前半の沢沿いの道、熊野神社からの落ち葉を踏みしめながらの道とバラエティーに富んでいる。特に沢沿いの道はかなり珍しい景色だと思う。

この辺は両側の壁も道も石

【飲み物を持って行かなかったばかりによけいな気苦労をした】

実は私、水を持って行かなかった。2~3時間歩くだけなら普段だって水分は摂らないし、それに自販機が1台くらいはあるだろうと。

さて、熊野神社までは順調に楽しく歩いたのですが、果樹園に行くときに間違えて鉄塔の保守のための道に迷い込んで時間と体力を食われてしまった。
すると急に水を持っていないことが不安になってきて、「このまま迷い続けたら…」「脱水症になったらどうしよう」とか、はたまた昔、ハイキング仲間だった人たちから聞いた、登山中に水を飲み切ってしまった後に道に迷った話を思い出したり。(彼、彼女らは葉っぱについていた雨水を舐めて喉の渇きを癒したそうです。)
低山って周りの景色が単調だからかえって現在位置がわかり難くて、自分の脳内では完全に道迷い遭難していました。結局、連れのスマホに助けられたのですが。一人でせかせかと歩いていたら、「もっと景色を楽しもうよ(怒)」と言われてしまった。(連れは道がわかっていたらしい。)

【足元は準備万端だった】

事前の調べで、沢のような場所を歩くと知っていたので、皮革製の軽登山靴を履いていた。長年にわたってミンクオイルを塗り続けているので防水ばっちりです。布製の靴だったら辛いハイキングになったと思う。

【登山スタイルが吉】

どんな服装で行くか随分と迷ったのですが、軽登山靴、ユニクロのストレッチパンツ、ヒートテック上下、ネルシャツ、アシックスのウインドブレーカー、トレラン用の小型のリュックで行きました。
すれ違う人たちは、きちんとした登山スタイルの人が多かったです。やっぱりそうなんだ。

今回は低山歩きを舐めてはいけないという、自戒を込めた話でした。

それにしても素敵な道でした。

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小金城跡(大谷口城跡)|千葉県松戸市の土の城

千葉県松戸市にある小金城跡に行ってきました。

発掘調査によれば、県下最大級の中世城郭だったそうですが、現在は大谷口歴史公園にほんの一部の遺構が残っているだけです。

歴史公園の遠景

公園内では、土塁、虎口、障子掘、畝掘が見られます。
私は、障子堀と畝堀が見たくて訪ねたのですが…。
こんな感じで…。

障子堀

畝堀

発掘当時はこうだったようですが。

障子堀(案内板の写真)

畝堀(案内板の写真)

風雨には勝てません。

障子堀も畝堀も、堀の内部に侵入した敵の動きを封じて、弓矢などで攻撃しやすくするための障害物です。

昔、空堀というものを知ったときは、水がないならすぐ渡れるのではないか、と思ったものですが、武士は重い鎧を付けているし、堀に降りたら敵からの攻撃を遮る物もないのでそう簡単に越えられるものではないのでしょうね。。

宅地造成の際に発掘調査が行われたそうで、園内の案内板には、土塁や堀の跡を重ね合わせた空中写真が掲示されています。
9~10の曲輪がつながった形状だったと予想されています。現在の常磐線と流鉄流山線とまてばしい通りに囲まれた一帯が城域だったようです。南北約600メートル、東西約800メートルという城域は、東京ドームのグラウンドの面積と比べると約37倍の広さです。

歴史公園から西へ200メートルほどの場所には、馬屋敷跡が緑地として整備されています。

築城年はよくわかっていませんが、1500年代半ばには籠城戦に耐えられる規模になっていたようです。
城主の高城氏は秀吉の小田原攻めの際に北条方に付いたのですが、城は一戦もせずに明け渡され、建物は灰燼に帰したといわれています。

最寄り駅はJR常磐線北小金駅です。
駅の北口を出て右方向へ進み、大きな道路(まてばしい通り)に出たら左へ曲がり直進します。セブンイレブンを通り過ぎると信号があり、左に道が2本V字状に出ているので、向かって右の道に行きます。すぐに丁字路に突き当たり、正面に大勝院幼稚園が見えます。右へ曲がって3分くらいで公園の入り口が見えてきます。

参考文献
千野原靖方 東葛の中世城郭 崙書房出版 2004

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二十世紀梨発祥の地は松戸ではなく千葉県市川市八幡かもしれないというお話|千葉県は梨の産地として有名です

二十世紀梨は、松戸の覚之助という人によって栽培が始まったといわれ、千葉県松戸市二十世紀が丘梨元町には、発祥の地の記念碑まで建っています。

ところが、その二十世紀梨の苗は、市川市八幡で発見されたという興味深い記事を見つけたのでその抜粋を載せました。

昭和34年に市川毎日新聞社から発行された「市川市市制25周年記念 市川の思い出」という本の中に、農業を営む北川善太郎さんという方の話として、載っていた記事です。

八幡の梨のはなし

「八幡の梨は今も有名だが、昔は千葉県で梨の出るところは此処だけだったのですよ。
八幡の梨を初めてつくったのは、今から180年ばかり前、八幡の住人の川上善六という人だが、八幡は梨づくりには最も適した土地だったのですよ。砂地でね。私たちはこの砂地に梨の木を植えましたのが ―中略― 八幡に松の木が多いのも、梨畑の防風林のつもりで植えたのが初めでね、昔は南風が強く吹いたものですが、又そのため梨の木が他所に比べておいしい原因ともなっています。」(P49)

1896年~1909年の八幡の地図。果樹園の記号がたくさんあります。

二十世紀も八幡が発祥地

「一番うまい梨だといわれている二十世紀という梨は、松戸の覚之助という人が、60年程前に栽培して売り出したとされているけど、あの二十世紀は、もとは八幡の稲荷神社の境内に自然に生えた梨なのですよ。松戸の覚之助のお父さんがね、何といったか名前は忘れたが、その人がある年、八幡様の農具市にやってきた時、八幡の親戚の家に遊びに立ち寄った。当時、今の市役所の近くに稲荷神社があってね、その境内に色のかわった梨がなっていた。これを見たその人がね、「これは面白い梨だ」とそのなしの“ボ”をもって帰って、自分の家の梨の木についでみた。そうすると何とウマイ梨が出来てね。息子の覚之助さんの代になってから「二十世紀」という名前を付けて売り出したところ、これが大当たりー略―」(P50)

以上ですがなかなか興味深いです。

現在、二十世紀梨はこの辺ではあまり見かけませんが、九十九里海岸の辺りでは栽培されています。
西日本で栽培が盛んらしく、生産額が一番多いのは鳥取県です。

千葉県内でよく見かけるのは、幸水,豊水などの皮の赤い品種です。
千葉県は栽培面積・収穫量・産出額ともに全国第1位になっています。 

地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)から使用させていただきました。

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葛飾湧水群|千葉県船橋市の湧水

千葉県船橋市の西船を中心とした地区には、小さな池がいくつか見られます。これらは葛飾湧水群といわれています。

葛飾神社の池(西船5丁目)
住宅地の中のささやかな池。
国道14号の競馬場入り口のバス停があるあたりから細い道を南に下ったところにあります。

二子裏の池(東中山1丁目)
国道14号沿いの東中山児童公園から少し西へ行ったところにある池。

二子藤の池(東中山1丁目)

多聞寺の国道14号をはさんだ向い側にある池。

以上は国道14号沿いにある湧水池です。

このほか国道14号の北側にゲエロの池(印内1丁目)、葛羅の井(西船6丁目)があります。

船橋市は、環境にやさしいまちづくりのモデル事業として、これらの池の整備に取り組んでおり、保存会や町内会、神社などが維持管理にあたっています。

都市化によって姿を消した湧水池もあったようで、西船5丁目にある勝間田公園はもとは勝間田の池といい、葛飾川の谷の出口にあった湧水池だったそうです。
ちなみにこの葛飾川は現在では暗渠化しています。

【このあたりに湧水が多い理由です】

湧水とは地下から湧き出した水のことですが、どこからでも湧き出すわけではありません。
湧水はほとんどの場合、台地の周縁に沿って湧き出します。

湧水があるためには、以下の条件が必要だからです。

・雨水が台地の地面にしみ込むこと。
・しみ込んだ雨水が地下水として地中に貯えられること。
・地下水が地表に現れるための出口があること。

船橋は市の北部に台地が広がっていて、ちょうど西船の辺りが台地の辺縁にあたるようです。

と、ここまで読んできて、台地の都市化が進んだ今でも、きちんと水が湧いているのか疑問に思いませんでしたか?

地元の史跡に詳しい人にお話をうかがったところ
「少しかもしれないが水は湧いているのだろうと思う。例えば(葛飾湧水群の一つ)ゲエロの池はとても小さいのに、日照りが続いても水が枯れないから。」
ということでした。

参考:宮原武夫 船橋の歴史散歩
   船橋市観光協会
   市立市川自然博物館 市川自然博物館だより 12・1月号  1998年1月10日発行

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京成線の「京成西船駅」が「葛飾駅」だったこと|船橋市西船

現在の京成線西船駅は、昭和62年までは「葛飾」(かつしか)」という駅名でした。大正5年に駅が開設された当時のこの辺りの地名が「葛飾村」だったからです。

【葛飾って東京都の地名ではないのか?】

たしかに寅さんで有名な柴又は葛飾区ですが・・・。
葛飾は万葉集にもみられる古い地名で、現在の東京都、千葉県、埼玉県、茨城県にまたがる地域だったそうです。

それが17世紀頃に、下総国葛飾郡(主に千葉県の辺り)と武蔵国葛飾郡(主に東京、埼玉)に別れ、さらに明治11年に、東葛飾郡、北葛飾郡など幾つかに分かれたそうです。

国道14号沿いの葛飾神社。

葛飾郡の総社として一千年の歴史があるそうです。

【西船駅周辺の地名の大まかな変遷です】

●明治11年、郡区町村編制法施行により、東葛飾郡を設置。
現在の市川市、松戸市、野田市、流山市、浦安市の全域と船橋市、柏市の一部や鎌ヶ谷市、埼玉、茨城の一部までを含んだ部分が東葛飾郡という行政区画になった。

●明治22年、町村制施行。
西海神、山野、印内、古作、寺内、本郷、二子、小栗原の八村が合併して「葛飾村」になる。

●昭和6年「葛飾村」が「葛飾町」になる。

●昭和12年、葛飾町、船橋町、八栄村、法典村、塚田村が合併して「船橋市」になる。

●昭和41~42年、「西船」誕生。
住居表示の変更があり、西船1丁目から西船7丁目が誕生しました。
京成西船駅(旧葛飾駅)の住所は葛飾町2丁目でしたが、昭和42年6月の町名変更で、西船4丁目になりました。

それから20年後の昭和62年。
西船という地名が浸透してきたため、「葛飾駅」も「京成西船駅」と改称されたそうです。

【東葛飾のその後】

平成17年3月28日、東葛飾郡沼南町が柏市に編入されたため、東葛飾郡は消滅しました。

JR総武線西船橋駅の南側には今でも「葛飾町」という町名が残っています。

東葛飾郡(だった場所)の南部は現在でも葛南と呼ばれることがあります。
松戸市の辺りは東葛と呼ばれることがあります。

(ブログを書くにあたって、西船駅上りホームの案内板「葛飾の地名とその由来」及び船橋のホームページを参考にさせていただきました。)

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小栗原城址|千葉県船橋市本中山の土の城

土の城に関する記事もいつの間にか7本目です。今度の城跡も恐ろしく地味です。

さて、京成線で成田方面に向かうとき、中山駅と東中山駅の中間の進行方向右側に、樹木が生い茂った小高い場所があって通るたびに気なっていました。なんか城址みたいだと思って。

昨年「東葛の中世城郭」という本を購入してみたら、例の気になる場所が「小栗城址」として紹介されていました。

【旧小栗原村(古くは小栗郷)の低地帯に向かって突出していた標高二十メートル前後の舌状台地先端部にあった城跡で、「城の台城」とも呼ばれている。-中略―台地南下には「城之下」という地名が残る。】(「東葛の中世城郭」P44より)

写真は台地の東側の切通しです。写真の右側が台地で、上には稲荷神社が建っています。
京成線の車窓からだと全景が見えるのですが、現地だと引きが取れなくて一部分しか写せません。

ここから南東約200メートルの場所に多聞寺というお寺があり、墓地の部分がかなりの高台になっています。

写真は多聞寺の西側から眺めです。木の茂っている場所が墓地です。

もともとは稲荷神社の高台と多聞寺の高台はつながっていて一つの城域だったそうです。
それが明治時代に旧総武鉄道や京成線の工事の際に削られてしまい、現在の形になったそうです。もともとの城域は東西約200メートル、南北約150メートルほどと推定されるそうです。

さらに前掲書によれば、多聞寺背後の台地(墓地になっている場所)の東方、東中山1丁目13番地の台地辺縁に小社や石祠が祀られている樹林の茂った一角があり、この樹林付近に遺構らしき気配が感じられるが、果たして土塁などの痕跡であるのか確定し得ないということです。

多分この場所だと思うのですが、台地に上る階段の入り口が閉ざされていて、上に上ることはできませんでした。

この近くの三峰社にも遺構らしきものあるということで、虎口に設けられた櫓台の跡かもしれないそうですが、残念ながら今回その神社を見つけることが出来ませんでした。

これでおしまいです。わかりやすい写真が撮れなくて心残りです。

現地へは京成線東中山駅から歩いて行けますが、台地以外に見るべき遺構はありませんのであしからず。

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